May 27, 2008

買った本

amazonで注文した本が続々来たので最近買った本を上げてみよう。教科書として使うものもいくつか含まれているが。

『日本が支える観光大国アメリカ 歴史・経済・文化』浅羽 良昌 昭和堂
『メディア文化論 メディアを学ぶ人のための15話』吉見 俊哉 有斐閣アルマ
『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』朝日新聞出版
『卒業式まで死にません 女子高生南条あやの日記』南条 あや 新潮文庫
『コンセント』田口 ランディ 幻冬舎文庫
『スカートの中の秘密の生活』田口 ランディ 幻冬舎文庫
『科学の目 科学のこころ』長谷川 眞理子 岩波新書
『国語入試問題必勝法』清水 義範 講談社文庫
『経営学入門[上]』榊原 清則 日経文庫
『プレジデント』2008.6.2 読まれる文書、バカにされる文書 プレジデント社
『教養としてのロースクール小論文』浅羽 通明 早稲田経営出版

それと大学で先生に借りた本。
『うつと不安の認知療法練習帳』創元社
『イラストレート恋愛心理学 出会いから親密な関係へ』誠信書房 齊藤 勇


一昨日くらいからやっと読書ができるくらいの気力が出てきた。
養老孟司『バカの壁』を見ていたらやっぱりそうか、という記述があった。

脳化社会である都市から、無意識=自然が除外されたのと同様に、その都市で暮らす人間の頭からも無意識がどんどん除外されていっている。しかし人間、三分の一は寝ている。だから、己の最低限三分の一は無意識なのです。その人生の三分の一を占めいているパートについては、きちんと考慮してやらなきゃいけない。 無意識の状態でだって身体はちゃんと動いています。心臓も動いているし、遺伝子が細胞を複製してどんどん増えて、いろんなことをやっているわけです。 それもあなたの人生だ、ということなのです。が、おそらく近代人というのは、それを自分の人生だとは夢にも思っていない。それは単に寝て休んでいるだけなのだと思っているわけです。人生から外して考えています。実はこれが、残りの起きている時間をおかしくしてしまう原因なのです。(p.119)

オレは睡眠時間を勿体無いと考えてしまうところがあって、全く持ってやりたいことが終わっていないのに眠気に襲われることが恨めしい。たまにぶっ続けでほぼ一日パソコンの前にいると言うような無理なことをするから「身体からの反乱」、というわけなのかもしれない。「身体からの反乱」と言えば先日ある御仁とお話していて言われたこと。「人間なんて特別だと思ってても所詮は動物なんだから。野菜が不足してるとか、そんなことからうつになるんじゃないかしら。人間は脳から身体の各部に指令を送っている中央集権体制だと思いがちだけど、実際は意外と地方分権だったりするんじゃないかって。NHKの爆問からの受け売りなんだけど。」えぇえぇ、朝日を浴びたり、きちんとした食事を摂ったり、大事ですよね。やっぱり。リズムを作ることが脳内のセロトニン分泌を促すことにもなるそうだし。

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March 13, 2008

牧野 剛『30年後の「大学解体」』(ウェイツ)

なぜか今回は特別早く、amazonで注文してから24時間しないうちに来た。

基礎教養ゼミでのマキノ節を思い出しながら一気に読了。面白い。何が面白いかって考えてみると、牧野さんが話していた全共闘運動時代のことが当時は知識不足で半分ほどしか理解できなかったのだけどこの本を見てわかったということもあるし、教育界・予備校の内情が分かって面白いというのもあるのだけど、この本はインビュー調で書かれていてやっぱりなんと言っても話が面白いんだな。以前牧野さんにご飯に連れて行ってもらった時、「こういう場では身内だけでなく誰もにうける面白い話の一つや二つ持ってないといかんぞ」と言われて順番に話させられた時はものすっごいプレッシャーだった。

牧野さんは名古屋大学で、東大と京大に挟まれたこの地区の全共闘運動の指導者として活躍した。全共闘運動は「大学解体」を叫んで活動したのだけど、セクトと言って所属する党派によって内ゲバを起こしていた。それを牧野さんは「まあまあ」と言って説教してくっつけてまとめていた。その後、予備校講師になり河合塾の全国展開に大きく功労を残す。

党派に入らなければうまく行かないのだったら、自由にやらせてくれればどこでもいい。
(中略)
全学連をつくるんだったら党派同士の激突を回避するほうが重要だろうと思いました。
(中略)
ところが中央からは「何人動員するんだ」とか「党派闘争をやれ」とか、ばかなことばかり言ってくる。自分たちは全員金がないので、革マル派だけは来なかったけれども、中核派も社青同もブントも無党派も全員同じ電車で全国闘争のため東京に行くわけです。東京に着くとパラパラッと別れて、会場ではそれぞれの党派ごとに殴り合いをやらなければいけない。そして帰りもまた同じ電車で一緒に帰らなければいけない。だって団体だと安くて、半額になりますから(笑)。(pp.27-28)
芽嶋さんは「教科書不使用」や、エンタープライズ号寄港阻止闘争、佐世保闘争に生徒を連れていったということで解雇され、裁判をやって最高裁でも負けた。 (中略) 芽嶋さんは教科書不使用だけど、いつもプリントを配って授業をやっていたわけです。そのころ大学入試がどんどん変わって小論文がやられるようになりましたが、従来の科目の否定としてつくられたのですから教科書なんかやっていると小論文はできないのです。 (中略) この皮肉がどこまで行くかというと、なんと小論文の対策が高校でできなくなった福岡県教育委員会が「小論文指導の先生をよこしてくれ」と河合塾に言ってきた。それで高校を首になった芽嶋さんが指導に行ったんです(笑)。(p.34)
少子化でつぶれるんじゃないかと言われて、実際2010年には浜松地区は浪人生ゼロ、何とか地区もゼロとデータが出てきても、内部の8割ぐらいの人は何も変わらないだろう、われわれだけは大丈夫だろうと思っています。 (中略) それで塾側が「生徒の人数に応じて給料を減らしたい」と言うと抵抗するわけです。しかし、50代半ばの連中に、もう自分たちは給料を減らされてもいいと決意している奴が多いんです。「自分の給料を1コマ90分切れば、若い奴が2コマになる。こいつにそれを回してやってくれ」と言っている奴が僕の周辺に10人ぐらいいます。 河合塾の「自己否定」の全共闘派は、まるで企業に協力する「ワーク・シェア」みたいに見えるけれど、そうではなく、全共闘をやった以上は企業に長々といるべきではなかったし、「おれたちは流れ者だ」という意識が強い。(pp.91-92)

うちの大学にも何名か河合の一派が流れているが・・・・・・あんまり内情を書くと怒られるか。


タイトルにあるのは、全共闘運動から30年がたった今、文部科学省が「大学解体」を行っているという意味。しかしこれタイトルの付け方がいまいちなんじゃないかと思う。もっとキャッチーなの付ければ興味を持つ人はいそうなのに。あと目次に小見出しまで載せてほしい。2002年出版。

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March 11, 2008

今日買った本

amazonで注文した。

右翼と左翼 (幻冬舎新書) [新書]
著者: 浅羽 通明 (著)

自殺死体の叫び (角川文庫) [文庫]
著者: 上野 正彦 (著)

30年後の「大学解体」 [単行本]
著者: 牧野 剛 (著)

ヤクザ―ニッポン的犯罪地下帝国と右翼 (単行本)
ディビット E.カプラン (著), アレック・デュプロ (著), 松井 道男 (翻訳)

ザ・尋問術―心理的圧迫テクニックから拷問まで (単行本)
B. ラップ (著), 松井 道男 (翻訳), 坂井 純子 (翻訳)

ヤクザが消滅しない理由―江戸時代から今日までヤクザビジネスの正体 (単行本)
デイビッド・E. カプラン (著), アレック デュブロ (著), David E. Kaplan (原著), Alec Dubro (原著), 松井 道男 (翻訳), 坂井 純子 (翻訳)

EQ こころの鍛え方 行動を変え、成果を生み出す66の法則 (単行本)
高山 直 (著)

男と女の悲しい死体―監察医は見た (単行本)
上野 正彦 (著)

自殺のコスト (単行本)
雨宮 処凛 (著)

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September 15, 2007

かれん 「名古屋嬢のエリカさま」(集英社クイーンズコミックス)

いやあ、面白い。もともとオレは「でら」とか好んで使う一部の言葉を除いて、ベタベタの名古屋弁を使っていたわけでない、と思っているので、こちらに来て「名古屋弁しゃべってよ」と言われると何をしゃべっていいのかわからなくて困ってしまったりする。だけんども、とろくっさい関西弁なんか使えせんもんだで、関西人じゃないとはわかるらしいんだけどよぉ。この漫画を読んでセリフを追っていくと名古屋弁のイントネーションがどこからともなく聞こえてきてまうもんでいかんわ。

コールセンターに勤務するOLのエリカが男に名古屋弁で啖呵を切るシーンはかっこいい。こんな絵に描いたようなお嬢様は近くにいなかったので本当にそうなのか知らないが、名古屋人の行動習慣や文化が要所要所に出てきてこれは、立派な名古屋文化の啓蒙本。しかしただの名古屋の紹介本ではなくストーリーもちゃんと楽しめるところがいい。

巻末に「愛・地球博ゆるツアーのすすめ」と称した潜入記も載っていて、オレにとってはツボな一冊で、是非人に勧めたい一冊だ。

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August 11, 2007

長嶺 超輝 『裁判官の爆笑お言葉集』(幻冬舎新書)

前から読みたいと思っていたベストセラー。軽ーく読める、法廷バラエティー的一冊。

裁判とは法に厳格で忠実でなければならない。国家が人に下す判決であるからして、私利私情による揺らぎや、文字通り裁判官の裁量による幅があってはいけない。裁判官が法廷で意見を述べる場合には「私はこう思う」ではなく、「裁判所はこう考えます」と言うのだ。

しかし裁判でも、裁判官の人としての(「血の通った」とよく言われるが、)本音が聞こえてくる場面が見られる。それは補充質問や、判決理由、説諭(正式な法律用語では「訓戒」)という機会である。タイトルには「爆笑」とあるが、心を突き動かす粋な一言あり、被告人を諭すクサイ説教あり、社会に投げられた普遍的なテーマあり、思わず漏らした痛切な本音あり。

中には適切でないとも言われるかもしれない、独善的な意見もある。が、裁判はただ機械的に捌いていって(片付けていって)いいものでなく、人の行った行為に対して社会を代表して声を届けるものであると思う。また閉じていた犯罪者の心と真摯に向き合い、開かせる機会であるかもしれない。だとするならば、こうした魂に訴えかけるような言葉をこれからも生んでいって欲しいと思うのだ。

さて、オレが特に心に響いたのは、「自殺サイト」で知り合った男性3人が集団自殺を図り、自らは生き残ってしまい自殺幇助の罪に問われた21歳の大学生に対しての、次のもの。

人間というものは、誰だって辛い思いをする。良いこともあれば悪いこともある。悪いときにはスポーツをするとか、気分転換を図るとか。君には生きていく知恵が欠けていたのかもしれないね。

今ばかり思っても仕方がない。過去ばかり見ることは、もっと仕方がない。

パソコンの前にいたって、新しいものは出てこない。孤立する原因は人づきあいにある。この事件以後、心配してくれた周囲の人たちと、少しずつつながりを持って、心の弱さを克服してほしい。
(pp.202-203)

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August 04, 2007

中島 義道 「私の嫌いな10の言葉」(新潮文庫)

この本を手に取ったのは、今のオレにとってある種の必然性に引き寄せられたのかもしれない。大学の友人の一人が言っていることが、この本で著者が言っていることに重なって聞こえた。と言ってもこの本では、あくまでセンセーショナルで極端な書き方をしているから、全ての場合に当てはめて考えてしまうのは危険だと思うが。(もちろん極端な考え方や行動が危険なのは何事においても言えることだと思うが。)と、ここで極端な書き方と断定してしまうのは著者に対しての暴力だろうか。著者が日頃本心から怒っていることであるらしいから。

著者は自分で言っている通り、感受性においてのエゴイストでありマイノリティー。

私がエゴイストが割りと好きなのは、彼(女)は他人(マジョリティ)から憎まれ蔑まれ、何の利益も受けないから。いつもいつも他人(マジョリティ)から厭がられ損をしているから。それにもめげず、みずからの信条を曲げずに、この絶対的にそんな道を選んでいるから潔い。それに対して、「他人の気持ち愛好者」を嫌悪するのは、彼(女)の前に開けている道は、よく舗装された公認のラクな道だから。(pp.18-19)

恐ろしくなったのは、挙げられた言葉のうちのいくつかは自分が口にしたり、口にしないまでも、代わりに発した言葉を導き出す思考の根底に確かにあったものだったりしたからだ。「相手の気持ちを考えろよ!」「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」「ひとりで生きてるんじゃないからな!」・・・。

10の言葉に挙げられたそれはつまり、多くの日本人がよく考えもせずに、(というよりそれ以外の見方があるとは考えも及ばず)放ってしまいがちな言葉であろう。だからこそ逆説的に、それは画一的なものの考え方の押し付けという、暴力的行為であると指摘している。「おまえのために」言ってやるその相手より人間として絶対的に上位にいるという傲慢。そう言われてみると、よくもまあそんな恥ずかしいことを言えていたもんだと思わされる。

・・・・・・全部自分が好きでしたこと。子育ては、たいへんな苦労を伴なうものですが、(普通は)自分が好きでしているのです。そして、いかなる子育てであろうと、(普通は)もう充分それだけで子供から喜びを与えられている。だから、それ以上何も子供に期待してはならない。(p.68)

無論、子育てについてではないが、オレは言われたことがある。自分が好きでしたこと。自分がしたいからした。誰かのためじゃなく、自分のため。何も期待してはいけない。言われたその時は腑に落ちなかったが、今はそれも一つの真理かなと思う。期待をするから失望もする。「期待をしないでいること」はオレにはなかなか難しいのだけど、「期待通りに行かなくても失望しないこと」は自己防衛のためでもあり、相手を傷つけないためにも有効なことだ。オレがその友人に教えられたことの一つ。

この本には思い当たる節が多くて挙げていくとそれはきりが無いものになってしまう。反省するところもあれば、オレと同じ考えだ!と共感する部分もある。

たしかに、「胸に手をあててよく考えてみれば」わかることもままあります。しかし、それが相手の思惑と同一であるという保証はない。別のことがわかることもありうるのです。しかし、こう語る人はそれさえ認めない。「胸に手をあてて」自分の思惑とまったく同一の内容を探り当てなければいけないのですから、ほとんど過酷な要求を出している。(p.207)

結局のところ、著者の意見に賛同だ、とか、マジョリティーの意見が正しい、とかは、どうでもよくって。大事なのは自分とは違う多様な意見があることを認めること。他人(ひと)って自分とは驚くほど違う世界に住んでいるのだ。価値観、常識、ものの考え方、それらが相手と同じだなんていう幻想は捨てて、常に確認しながら対話しなければならない。自分もつい陥りがちなその思い込みに気をつけなくてはいけないが、相手にそれを気付かせるのもそれはそれは難しい。人付き合いがとてもうまくて、目下オレが生き方のお手本としているその友人にしたって、意見の違いでぶつかったり、食い違いでぶつかりそうになっている場面を見たりする。ほとんどの人が互いに争いたいなどと思っていないはずなのに、ぶつかってしまうことを苦々しく思う。


結局、他人は他人。自分のことを面倒見てやれるのは自分だけ。そう教えてくれたのも彼女。なぜこうも卓越した人生観を持っているのだろう。・・・・・・経験の違いかな。

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July 29, 2007

TOWイベントプランナーズスクール編 「現場主義のイベント企画」(日経BP企画)

イベントプランナー養成学校で弁を執る現役プロデューサー等の講師陣による、現場での体験から得られた知識を教授する一冊。

大学の「イベント論」の期末試験に参考になるかと思ったが、惜しかった。本書では博覧会の歴史についても触れられているのだが、第一回ロンドン万国博覧会以後の博覧会について。試験の一題に出たのは「イベントの起源から1851年ロンドン博までの歴史を論ぜよ」だった。

街づくりや地域交流、新技術の普及、観客誘致という側面を持つイベントは、観光とも結びついている。これから確立されていく新しい学問である、「イベント学」や「観光学」を学ぶ上で、役に立つのではないか。プロデューサーに必要な資質や、これからのイベントに求められるものの記述は参考になる。

プロデューサーの資質は、陽気、呑気、根気だと思っています。誰とでもつきあえるような陽気な人であること、自分のできないことに関しては気にしないという呑気な部分を持っていること、そして絶対にいつかやってやるという(時を待つ)根気がいります。それに加え、プロデューサーは、気配りもしなければなりません。挑戦しなければならない時があるからこそ、先に気を配っておく。目配りもおこたりなくする。(pp.45)

(中略)そして、リーダーシップ。会ったこともない大勢の人が一緒に働くわけです。プロデューサーとしては、その人たちに自分の考えを伝え、理解させなければいけません。多少の間違いは認めさせるくらいのリーダーシップがないと、人を引っ張れません。それには、どうすうればいいのか。リーダーシップを発揮するには理屈をこねすぎない、分かる言葉で話す、スタッフの性格を把握するという三点が重要です。
「この人はどういうことを間違いやすいのか」「どういうことが向いているのか」といったことを、常に把握しておく。また現場にいる末端のアルバイトなどは、プロデューサーと会ったことはほとんどないでしょう。それでも会場では、プロデューサーが歩いているという雰囲気と迫力を持たないといけません。一種のヒエラルキーがなければ、プロデューサーとしての地位は確立できないのです。(pp.174)

また企業のPR、SP(セールスプロモーション)を請け負ったイベント会社が、イベント企画の過程でクライアントの目的達成について考えた結果、発注されたもの以上の提案を行って成果を収めた事例が紹介されている。イベント企画が、単発の仕事に留まらず、企業活動と密接に関係して発展していく可能性を示したものと言える。

Amazon.co.jp: 現場主義のイベント企画: 本: TOWイベントプランナーズスクール:

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June 06, 2007

後藤 正治 「はたらく若者たち 1979~81」(岩波現代文庫)

今、大学で後藤「先生」の受け持つ「クラス」にいるオレは、「先生」がノンフィクション作家であると知り、是非とも著作をチェックせねばと思った。本作は1983年に後藤さんの処女作として出版されたものの復刊であるらしい。後書きには「先生」の若き日を振り返ったところがあり興味深い。

本作は後藤さんが労働者の働く現場に文字通り「潜入」し、実際にそこで働く人たちの声を吸い上げたルポタージュの短編集である。しかもその現場の多くが、キツイ、汚い、危険の3Kという言葉がぴったりくるような、労働環境の厳しいところばかりである。例を挙げて言うと、港湾の船内荷役作業者、長距離トラック運転手、新幹線の保線作業者、下水道の清掃作業者、システムエンジニア、ディスコのディスクジョッキー、猪飼野に生きる在日朝鮮人、夕張炭鉱の採炭夫・・・。日頃穏やかで、全てを受け入れるかのような後藤さんの姿を見ていると、この本の中にあるような汗水垂らして食らい付いていくような姿はあまり想像できない。

―――なんか感想がうまく書けないので保留。

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March 05, 2007

マーク・ピーターセン「日本人の英語」(岩波新書)

この本をパブリックなスペースで読んでいたら、ある人から「岩波新書なのに横書きなの!?」と言われた。
著者は日本の大学で英語を教えているアメリカ人で、今では日本語で本を書けるだけの語学力を持っているが、日本語の習得には大変苦労したようである。日本語の文章と格闘していて頭が沸騰して、和英辞典を放り投げながら思わず「日本語が嫌い!」と日本語で叫び、はっとしたそうだ。英語の西先生が授業中によくこの著者のエピソードを話すので気になってはいたが、「ネタ元見たり!」と言った感じである。

日本語と英語の構造の違い、元となる考え方の違いからくる、日本人が陥りやすい英語のミスを解説している。定冠詞(aとtheを使い分ける意味)、前置詞(onとinのニュアンスの違い)等、なかなか説明を一度聞いただけではモノにするのは難しいが、英語的発想、英語脳とはこういうものだと教えてくれる。

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立花隆「ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術」(文芸春秋)

最新刊である「ぼくの血となり肉となった五〇〇冊そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊」は読んでみたいと思っていたが、図書館で先にこの本を手にしたので読んでみた。立花隆氏は、本をむさぼり読んでいる。後述する連載のために、一度本屋に行くと、2,30冊の面白そうな本をワーッと買い集め、サーッと目を通すそうである。しかしそれもあくまでも副次的なもので、個人的な読書生活ではそれ以上の(取材対象の下調べ等で)仕事上に必要な本を読んでいる。こんな調子で資料の山はすぐに増殖していくから、必要な時にいつでも取り出せるようにと、地上3階地下2階のビルを自前で建ててしまって保管庫としているほどだ。

この本には、氏が週刊文春に連載している「私の読書日記」から95年11月30日号~01年2月8日号の分と、それに序論と、特別編<『「捨てる!」技術』を一刀両断する> を加え収録している。モノを貯め込むことに罪悪感を感じ始めていたオレだが、期せずして援護射撃を得てしまった。ちなみにこれより以前の分は「ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論」に収録されている。


多くの本を速く読むためのヒントは「必ずしも全文通読する必要はない」ということ。このような話は速読のテクニックとしてはよく聞く話だが、オレ自身の経験ではそれで内容を理解できるかは疑わしく思っている。だが、氏の説明ですんなり理解できたのは、「音楽的読み方」と「絵画的読み方」を使い分けるということ。「音楽的読み方」は順に言葉を辿って丁寧に流れを追っていく読み方で、小説などのストーリーを楽しむものの場合はこの読み方が必要なことも多いが、有意義な情報を得るために読む本はほとんど「絵画的読み」ができる。目次などで全体の構造をしっかり理解して、要所要所飛ばしながらも深い読みが必要なところだけを「音楽的読み」するという方法。人間の目は意識せずともぱっと見て重要な部分をしっかり拾う力があるそうだ。毎日何十もの新しい本が世に出てくる昨今、読み方以前に、読むこと自体が無駄と思われるカスみたいな本もあるのでそれの見極めも必要である。

各パラグラフの頭のセンテンスを読むだけでもその本の流れが相当つかめるという。大事なことは大抵頭の数行に書いてあるからで、時間に余裕があれば加えて尻のセンテンスも読むのが良い。ところでこれはどこかで聞き覚えのある話・・・・・・その手法は基礎教養ゼミの牧野先生の教えに似たところがあることに気付いた。入試問題で出る評論文を読み解くには実は、要約を作ることが最も良い方法だという教え。元の文章で重要だと思うところ数行に線を引いていく。その部分を抜き出して組み合わせる。イメージとしては元の文章の論理構造そのままに忠実な縮小版を作ること。少しでも下手な改変をすると作者のニュアンスとは変わってしまうので、接続が不自然なところを直す以外は基本的に引用だけでいい。これをやることで本文の内容はしっかり把握できるし、問題で問われるような部分も自然とその中に絞られていることが多い。速読とは違って何度も読み込まないとできない作業なのだが、そうして作った要約は結果として、パラグラフの頭と尻のセンテンスで構成されていることが多いのだ。

氏は、文芸春秋社で記者をしていた時、恐い上司に「どんな本だって3分(ないし5分)あればその内容を言えるもんだ。」と怒鳴られたそうである。ここでも要約の大切さが証明されているようである。


読書は、(そしてこれはテレビやインターネットという他の媒体についても同じことが言えると思うのだが)学びを与えてくれる一方で、咀嚼の無い丸飲みには危険が伴なうということをこのように忠告している。

本に書いてあるからといって、何でもすぐに信用するな。自分で手にとって、自分で確かめるまで、人のいうことは信じるな。この本も含めて。(p.76)

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