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April 06, 2008

今日の有用なweb

私家版・精神医学用語辞典
http://psychodoc.eek.jp/abare/psy.html 風野春樹。1969年生まれ東京在住の精神科医。
ここのサイトからいくつか気になってオレが見たページを以下に。 

精神分析
http://psychodoc.eek.jp/abare/analysis.html

 精神分析の治療というのは、患者の持っているフィクションを、治療者が自分のフィクションで置き換えていくこと、ということになる。神経症の患者というのは、症状を生み出すようなフィクションに固執しているわけで、精神分析家がするのは、「解釈」と称して、患者のフィクションを、症状を生み出さないようなフィクションで置き換えていくという作業なのだ。心の中の真実を探る作業ではない。
 フィクションに説得力を持たせるためには、その内部で矛盾がない必要があるけれど、他のフィクション(他の理論)との間に矛盾がないかどうかは、まったく関係がない。だからいくつもの理論が並び立っても全然不思議はない。
 非常に乱暴に言ってしまえば、「これは効く薬なのである」というフィクションを信じることによって病気が治ってしまうという、プラセボ効果とよく似た治療法なのですね、これは。


精神分析 その2
http://psychodoc.eek.jp/abare/analysis2.html

 ただし、アイゼンクの『精神分析に別れを告げよう』はフロイト批判としては確かに有効だけど、それが今も有効な精神分析批判になっているかどうかは別問題。実は精神分析界内部でも、フロイト理論の多くはすでに否定されており、今さらわざわざそんなものを否定されても(一部のフロイト派以外は)別に痛くも痒くもないのである。
 たとえば藤山直樹という精神分析家は、精神分析とは「患者の話した内容や夢内容をなんらかの理論にもとづいて解釈する治療」だというのは根本的な誤解である、という。「幼児記憶の再構成による治療だ」というのもまったくの誤解だと。これらはフロイトが当初想定していたものだし、アイゼンクの批判も多くはそこに向けられているのだけど、今の精神分析はそこからはかなり離れたところまで来ているのである。
 それがよくわかるのが岡野憲一郎『新しい精神分析理論』(岩崎学術出版社)という本。地味なタイトルだがこれは、精神分析内部にとどまりながらも旧来の精神分析を批判する、という実にスリリングで刺激的な本である。
(中略)
 藤山直樹という精神分析家はこんなことを書いている。「精神分析はあくまでもひとつの営み」であって、学問ではない、と。しかも、その上で彼はこういうのだ。「精神分析を営もうと志すことはひとつの生きかたの選択」である、と。
(中略)
 生き方、ねえ。SF者がコミュニティを作り、SFはジャンルではなくて生き方だと主張するようなものですかね。人の生き方に文句をつける気はないが、厳しいイニシエーション、外部には理解しがたい言葉の使い方といったあたりに、なんとなくカルトに似た気味の悪さを感じてしまうのも確かだ。
(中略)
 戒律、破門、異端者といった用語は小此木啓吾が使っている通り。どうやら、精神分析を選んだ者は、生活のすべてを精神分析に捧げなければならないらしい。まさに鉄の掟である。
 「生き方」「文化」ときて、次にラカン派の藤田博史の言葉はもっとすごい。 「従来の科学が『構造内における知の組み替え』であるとすれば、精神分析は『構造を可能にする諸条件の解明』を目指す『メタ科学』といえる」
(中略)
 不思議なことに、現代思想方面では、精神分析といえばフロイトでユングでその次がラカンみたいな理解が一般的のようなだけど、分析全体の流れからいえば、これは全然見当外れである。精神分析の発展に大きな影響を与えたのは、むしろクラインとかウィニコット、カーンバーグやコフートといった一般にはあまり知られていない分析家の理論であって、ユングやラカンはあくまで傍流である。なぜラカンがこんなにもてはやされるのか、私にはよくわからない。難解だから? フランスだから? 確かに、アメリカ精神分析より、フランス精神分析といった方がなんだかかっこよさげだしなあ。
(中略)
 話がそれてしまったが、要するに、科学であることを否定された精神分析が選んだのは、「生き方」であり「文化」であり「メタ科学」である、という道であるらしい。
(中略)
 しかし、分析という治療のための技法それ自体が「生き方」になってしまっている事態というのは、どこかおかしいのではないか、という気がする。量子物理学者は別に量子物理学的生き方を求められはしないし、ヘーゲル哲学者だって、ヘーゲル的生き方をしていないからといって破門されたりはしないだろう。

引用が冗長かつ細切れになったが、精神分析に関する系譜を学習する意味でのノートとして使わせてもらう。
このところずっと精神分析を受けてみたいと思うようになっていたのだが、フロイトに端を発する精神分析は前時代的なもので非科学的であるとすら言われているようだ。それに代わる治療法となると、行動療法?認知療法?境界例についても調べてみる必要がありそうだ。

境界例とインターネット
http://psychodoc.eek.jp/abare/bpd.html

もちろん安易に診断をつけることはできないけれど、「鬱系」サイトのオーナーたちの性格は、「うつ病」のそれよりも、むしろ「境界例」(ボーダーライン)に近いものが多いようだ。
 境界例ってのが何なのか、という話になると長くなるのだけど、『精神医学ハンドブック』(創元社)の小此木啓吾の記述をもとに、特徴をいくつか簡単に紹介してみよう。

 まずは、慢性的な空虚感。そして感情の不安定さ。
 見捨てられることを避けようとする異常なほどの努力。
 不安定で激しい対人関係。
 自己像や自我感情の不安定さ。
 自分を傷つける衝動性。
(中略)
 ま、物事を単純に「善」と「悪」、「正しい」と「正しくない」に分けてしまいがちだというこの「二分法的思考」は、人間誰しもある程度は持っている欠点だし、最近特にそういう人が増えてきたようにも思うのだけど、境界例の人はそれが極端なのだ。
(中略)
 また、逆にいえば、境界例的心性を持つ人は、こういう信念を自分が持っていることを認識し、できるだけ修正していった方が生きやすくなる、というわけですね。もちろん小さい頃から育んできた信念はすぐには変えることはできないわけで、それには長い時間が必要なのだけれど。
(中略)
 「コムニタス」というのは、文化人類学者のヴィクター・ターナーが考えた概念で、通過儀礼(イニシエーション)の中での人間関係のあり方を意味する。コムニタスとは、「身分序列、地位、財産さらには男女の性別や階級組織の次元、すなわち、構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは棄てた反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係のあり方である」のだそうだ。
(中略)
 さて、この「コムニタス」の概念と境界例を結びつけたのが河合隼雄である(「境界例とリミナリティ」という論文)。境界例のコムニタスへの希求はきわめて強い、と河合隼雄はいう。つまり、境界例の人は、親子関係であるとか偽善的な決まりごとであるとか、そういう社会の序列や構造が極端に苦手(あるいは嫌い)で、身分も地位もない生身の関係を強烈に求めている、というのですね。また、精神科医の鈴木茂も、境界例には「構造的なものに対する徹底的な脆弱さとコムニタス的関係様式への絶対的帰依」があると書いてます。
 ただし、「コムニタス」には社会的身分も役割もないので、「常に生身がさらされる、きわめて緊張をはらんだ、互いに傷つきやすい関係であり、長くそこにとどまることは苦痛である」。ターナーも、コムニタス状況は長期に渡って維持されることはない、と書いている。たとえばサークルや宗教団体など、当初はコムニタス的だった集団があったとしても、そこにはやがて「構造」が生じ、自由な関係はいつのまにか「社会的人格の間の規範=支配型の諸関係に変化してしまうのである」。
 しかし、それはあくまでリアルな人間関係での話。
 考えてみれば、ネット空間というのはまさにこの「コムニタス」なのではないだろうか。そして、リアルな人間関係では不可能であっても、ヴァーチャルな空間であれば、そこに長くとどまることだって可能なわけだ。つまり、インターネットはきわめて境界例と親和性が高く、彼らにとって非常に居心地のいい空間だということになる。そしてこれこそが、「ボーダー系」(今まで述べたとおり彼らはうつ病ではなく、境界例的心性の持ち主なのだから、「鬱系」ではなくこう呼ぶべきだろう)のサイトがネット上に数多く出現している理由に違いない。
(中略)
 精神科医は当然(医者から見て)「治療関係」が成立したケースについて詳しく書きたがるが、おそらく実際はそうではないケースの方が多いのだろう。なんせ境界例は「安定した治療関係を保つのが非常に難しい」のだ。まあこれは医者の側から見た言いぐさであって、逆に患者からみれば「精神科医には絶望することが多い」ということになるのだろう。数としては、そもそも医者を信頼していないので精神科になど通おうと思わない人、1、2回通院しただけでやめてしまった人、医師は信頼していないが薬をもらうだけのために病院に通っている人などの方が多いに違いない。
 実際、境界例の治療に長けた精神科医を探すのは難しいし、患者が自分と合う医者を見つけるのはもっと難しい。互いの感情の問題にまでは立ち入らず、患者はただ病院に通い、医者は対症的に薬を出すだけ、という関係を続ける方が、精神科医にも患者にも楽であることは確かだ。もちろんそれでは患者は何一つ変化せず、治療は進展しない。患者は空虚感を抱えたまま生きていくことになる。
(中略)
 でも、じっと待つ、という治療方針ではたぶん医者は信頼されないだろう。彼らは今の生きにくさをなんとかしてほしいのだから。では、積極的な介入をすべきか、というと、それがうまくいくとは限らない。症状が増幅されたり関係が壊れてしまうこともある。それでもやはり、失敗覚悟で何らかの介入をしなきゃ、精神科医はどんどん信頼されなくなってしまうんじゃないかなあ、と医師のはしくれとしては思うのである。


アダルト・チルドレン
http://psychodoc.eek.jp/abare/ac.html

 ACというのは、もともとは、Adult Children of Alcoholics(ACOA)の略で、アルコール依存症の家庭に育った人のこと。「チルドレン」には、子供っぽいという意味はまったくなく、単に「アルコール依存症患者の子供」という意味にすぎない。こういう人たちには、ある一定の性格や行動の特徴があることから、1960年代末ごろからアメリカで注目され始めたのだけれど、その後、アルコールにかぎらず、機能不全を起こしている家族(親の暴力、虐待、厳しすぎる教育など不安や緊張の強い家族)で育った子供に同じような問題が見られることから、"of Alcoholics"がとれて、「アダルト・チルドレン」と呼ばれるようになったというわけ。
(中略)
 ここで重要なのは、「他人に対しては」というところ。ACという概念は、そもそも他人のための用語ではないのだ。あくまで「自分のための」用語なのである。ACという言葉を使うことによって、もやもやとして形がなかった自分の問題に名前をつけることができるわけである。ACというのは、自分がACであることに気づき、そして認めることに意味がある言葉なのだ。
(中略)
 診断と分類を重んじる伝統的精神医学の概念で、ACにいちばん近いものはというと、それは「境界性人格障害」、いわゆるボーダーラインでしょうね。私の見たところ、ACの性格特徴とボーダーラインにはけっこう重なるところが多いようである(母親からの見捨てられ体験とか、自我の脆弱性、空虚感、感情の制御の下手さとか)。


境界例と自己愛の障害からの回復
http://homepage1.nifty.com/eggs/

僕の彼女は境界例
http://enter.blog.drecom.jp/

南条あや - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9D%A1%E3%81%82%E3%82%84


南条あやの保護室─Wofficial Memorial Site─
http://nanjouaya.net/hogoshitsu/memory/

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